終戦記念日の日に
Aug
2018
15

一足早くいただいたお休み。
一週間以上も前の話になりましたm(__)m

今回もコーラス仲間との8/5~7の二泊三日の旅でした。
行き先は九州、福岡県。
一番の目的は我が指揮者の先生が作詞作曲した「この灯を永遠に」の舞台となった星野村。

終戦の年、8月6日に広島に落とされた原爆。
星野村出身の山本達雄さんが広島の部隊へ入隊となってそちらに向かう汽車の中で原爆に遭いました。
ご自分の叔父さんが広島市内で本屋を営んでいたこともあり、叔父さんの消息を求めてあちこち捜し歩いたそうです。
結局、消息は分からず、遺体すら見つからず、ちょうど本屋があったその場所でまだ燻り続けていたその原爆の火を、持っていたカイロに点けて星野村に持ち帰ったそうです。

その火が今もなお星野村(現在は統合されて「八女市」として)の方たちによって守られているという現実。
私もこのコーラスグループに入っていなければ知ることはなかったと思います。

1995年に建立されたこの「平和の塔」の一番前の三角のてっぺんにその火が守られています。
そして、自然に人を祈りへ誘う力を秘めたこの三角の連なりは広島方面に向かっているとのこと。


到着した5日に福岡空港でワゴンのレンタカーを2台借り、私たちの旅は始まりました。

翌日6日に広島の平和祈念式典と同じく、ここ星野村でも平和祈念式典が毎年開催されます。
せっかくなのでその式典に参列させて頂いたら・・・という我が指揮者の提言で、あれよあれよとこの旅の計画は進んでいきました。

毎年、その式典の最後に星野中学校の全校生徒が「この灯を永遠に」を合唱してその式典を終えます。
それが今年は生徒数も減り(全校で39名とか)、せっかくなので一緒に歌ってもらえないかという申し出が学校側からあったという連絡が数日前にあり、急遽楽譜を持っての参加となりました。

式典開始直前のリハーサル時です。
生徒たちが山台に乗っているその後ろですから・・・

当然、前からその姿は見えることなく・・・。

それは全然、構わないのですが、私たちが後ろで歌っているということを司会者はひと言も告げず、式典は終わりました。

別に歌うために参加した式典ではないので全く構わないのですが、ほかの参列者は、見えないとは言っても後ろにぞろぞろ歩いて並んでいる姿は見ていると思うので、「あのおばさん連中は何ぞや???」とさぞ不思議に思ったのでは・・・。

少しばかり不快に思った一件でした!


それはさておき、星野村に着いたその日は先ず、前述の山本達雄氏のご次男であり陶芸家の山本拓道氏ご夫妻にお目にかかってお父様のお話を直接伺う機会を得ました。とても和やかなご夫婦で、お兄様が作られた無農薬の八女茶で冷茶を淹れてくださったのが美味しくて、私も購入させていただきました。
まだ飲んでいません。
あの時にいただいた冷茶をうまく淹れられたらいいのですが・・。

そしてその時に出していただいた湯呑み茶碗。
私は違う湯呑みで飲んだのですが、その時のこの湯呑みを見て、持ちやすそうだな~と何か惹かれて、地味なような気もしましたが記念に購入してみました。

家に帰って早速これに熱いお茶を淹れて飲みましたが、思った通り、手になじんで滑りにくく、熱いお茶でも持った手は熱くなく、とても良かったです!


拓道氏のお話で印象に残っているのは、お父様の持ち帰った「広島の原爆の火」は今でこそ「平和の灯」として守られているけれども、当時の達雄お父さんは「叔父さんや日本をこんな目に合わせたアメリカをいつか倒してやる!!」という一心の「恨みの火」だったそうです。そして、原爆犠牲者の「供養の火」としてご家族が密かに守り続けてこられたのです。
この火を見るたび犠牲者の苦しみ、原爆や戦争に対する憤りで達雄氏の胸中は穏やかならずだったと言います。

密かに守り続けて20年以上経ったある日、たまたまお茶の取材で訪れた新聞記者の方が、もう汗ばむ季節なのに炬燵に火を入れているのを不思議に思って聞いたことがきっかけで、その記者に積年の恨みの話を爆発させ、この「原爆の火」が世に知られることになり、当時の星野村の村長の耳にも入ったそうです。

そして火は「平和を願う供養の灯」「世界平和の道しるべの灯」として永遠に灯し続けるために星野村で引き継いでいただくことになったと。

「平和の塔」が建立され「平和の灯」が移されたとき、達雄お父さんは心の整理もできて平和な気持ちになっていたということです。


終戦記念日のきょう、改めて山本達雄さんの想いに触れ、二度とこんなバカなことにならないように願うばかりです。